JENNIC札幌は15周年を迎えます
おかげさまで
10月8日で
ジェニック札幌店は15周年を迎えます
姿かたちを変えながらも
なんとか今日を迎えられたのは
ひとえに長年ご愛顧くださっている
皆様のおかげでございます
改めまして、心から感謝申し上げます
ジェニック札幌がオープンしたのは
2011年
あの年は東日本大震災が起こり
未曾有の出来事に日本中が悲しい空気で包まれました
自分においても
とっても大きな出来事があり人生の節目となりました
2011年の1月5日
年が明けてすぐ、父が亡くなりました
前の年の年末に体調が悪化して入院した時には
もうすでに身体中に癌が見つかり
余命を告げられて、すぐに亡くなってしまいました
数週間の入院生活の中で
父の生き様や最後を
旭川から札幌に行ったり来たりしながら
みる、知る、ことができたのは
とても良い経験になりました
父は造園業を営んでいました
小さい頃から、父の描くお庭の図面を見るのが
好きでした
細かく描かれた木の枝、葉
積み上げられた石
見るだけでふわっとイメージがつくような
素敵な図面
それを元に
お庭を造っていくわけですが
当時はなかなかの活躍をしていて
札幌市のお仕事や
リゾート開発においての庭園のお仕事などなど
(大通り公園、ルスツリゾート、登別温泉の露天風呂なんかも)
忙しく、忙しく、していました
私が小学3年生の時に離婚して
姉、兄、私は父にその後育てられました
忙しい父なので、男でひとつで3人を育てるのはそれはそれは大変
でも、いくら遅くなっても(10時に夜ご飯とか普通でした)
料理が得意な父は、美味しいご飯を作ってくれました
(家事は姉を中心に、お手伝いもよくしたのを覚えています)
ですが
「疲れた」なんて
言葉は聞いたことがありませんでした
遊ぶのが好きな父
ご飯の後の我が家の定番の遊びといえば
ボードに、父からのお題が出され
図形を(例えば△)3人分用意されて
これに何かを足して、ひとつのものを完成させる
というのをよくやっていました
この遊びが私は大好きでした
想像力はここで鍛えられたのかもしれません
忙しくしていた父でしたが
私が高校生になったくらいから
時代の流れや景気の影響もあって
経営もうまく、いかなくなっていた様子でしたが
なんとか、諦めずにとにかく一生懸命仕事をしてたのは
子供ながらになんとなく感じていました
私が独立を相談した時は
「何もしてあげられなくて申し訳ないけど
でもお前なら絶対成功するから、頑張れ!」
と、同じ自営業を始める大変さを伝え止めるのではなく
私の挑戦を心から応援してくれてました
(リニューアルの時は内装を手伝ってくれて旦那さんとのコンビもなかなかでした笑)
それから数年後
お仕事も少なくなってきたのか
気持ちもついていかないのか
父は家からもなかなか出なくなってきていました
最終的には体調も悪くなっている様子に
姉の心配も限界になり、病院へ連れて行ったのですが
そこですでに身体中に癌が見つかってしまいました
もう、余命も告げられたあと
気持ちも落ち込んでいるであろう時
どんな顔でいるのか心配しながら病院へ行きました
ですが父はなんと
病棟でお庭のデザインを描いていたのです
私と父は仕事の話をよくしていたのですが
その日は絵をもとに
「いいか、見てくれ、ここがこうなってここをまっすぐいくと、、、」
など、そのイメージをすごく真剣に真剣に
教えてくれました
その時
最後の最後になっても
本当に好きなお仕事だったんだな
最後の最後だからこそ
やっぱり自分はこれが好きだったんだと
思い返したのかな
そう思いました
あっけなく
そのあと数日後に亡くなってしまい
69歳でした
悲しくて悲しくて仕方がなかったのですが
悲しみを引きずって生きていくことよりも
人生の短さや
自分の人生納得できるように生きること
好きなことを大事に生きていくこと
すごくたくさんのメッセージを父からもらったような気がして
より、自分のこれからの人生に向き合うようになりました
悲しみのエネルギーをそこに変えていけるようになりました
余命を知り、長くお付き合いしていた
今の旦那さんとの結婚を決めたのですが
旦那さんのことをとにかく気に入っていた父は大喜び
(同じ病棟の患者さんへ大きな声で発表して、恥ずかしい思いをしたの覚えてます笑)
ですが私と二人になった時
「でも、お前は仕事は松井(旧姓)でやってくんだろ?」
と聞いてきました、おそらく松井の名前をお仕事は受け継いでほしい
という気持ちだったのでしょう
今も私はお仕事では旧姓を名乗っています
せっかく父からもらった感性やいろいろなもの
このままで終わらせたくないと亡くなってからどんどん思うようになりました
悲しんでいないで、もう一歩
私自身、勇気を持って進んでみよう
そこで、ずっとチャレンジしたいけど
理由をつけて行動できていなかった
札幌店の出店
を決意し、その年の10月にオープンを決めました
札幌店も、もちろん
旭川店同様に、毎日誰も来ない
なんていう日々でしたし
やっと、10年かけて
お客様が増えてきたタイミングで
コロナに加え
建物の取り壊しのための立退要請
2年近く、物件探しと立退にあたっての調停など
次々と難題がやってきます
ですがそのたびに
「いや、きっとパパも天国から応援してくれてる」
「せっかく受け継いできた色んなもの、ここでは諦めたくない」
「お前ならできると言ってくれたこと、信じて頑張りたい」
そう思い返しては鼓舞してここまで頑張ってこれたのだと思います
短い人生だったとは思うのですが
最後の最後
「俺さ、なかなかいい人生だったと思うんだよな」
と言っていた父
きっと大変なことばかり、色んなことがあったと思うのですが
最後にそう思えるなんて
きっと後悔なく生きた証拠なのではないかと思い
私もそうでありたいと思いました
この父の元に生まれたからこそ
辛いこと悲しいことも色々ありますが
たくさんの素敵な方達に出会いながら
好きなことをやらせてもらい
どんどん、人生に厚みが出てきているのではないかと
自分ながらに思っています
今年もなかなか大変な状況からのスタートではありましたし
きっと今後も色々な出来事に遭遇するかと思いますが
その度に
札幌店を始めたきっかけの父のことを思い出し
そして今ある環境に感謝し
生きていけたらと思っています
写真は父が
札幌市の親善として
日本庭園の技術を
姉妹都市ドイツのミュンヘンへ教えに行った時
ドイツの新聞に取材された時のもの
(左のノーヘルが父です笑)
忍者と向こうで呼ばれてたそうです
面白くて、ちょっと情けなくて、優しくて、かっこいい
不思議なでも魅力的な父でした😌

おかげさまで
10月8日で
ジェニック札幌店は15周年を迎えます
姿かたちを変えながらも
なんとか今日を迎えられたのは
ひとえに長年ご愛顧くださっている
皆様のおかげでございます
改めまして、心から感謝申し上げます
ジェニック札幌がオープンしたのは
2011年
あの年は東日本大震災が起こり
未曾有の出来事に日本中が悲しい空気で包まれました
自分においても
とっても大きな出来事があり人生の節目となりました
2011年の1月5日
年が明けてすぐ、父が亡くなりました
前の年の年末に体調が悪化して入院した時には
もうすでに身体中に癌が見つかり
余命を告げられて、すぐに亡くなってしまいました
数週間の入院生活の中で
父の生き様や最後を
旭川から札幌に行ったり来たりしながら
みる、知る、ことができたのは
とても良い経験になりました
父は造園業を営んでいました
小さい頃から、父の描くお庭の図面を見るのが
好きでした
細かく描かれた木の枝、葉
積み上げられた石
見るだけでふわっとイメージがつくような
素敵な図面
それを元に
お庭を造っていくわけですが
当時はなかなかの活躍をしていて
札幌市のお仕事や
リゾート開発においての庭園のお仕事などなど
(大通り公園、ルスツリゾート、登別温泉の露天風呂なんかも)
忙しく、忙しく、していました
私が小学3年生の時に離婚して
姉、兄、私は父にその後育てられました
忙しい父なので、男でひとつで3人を育てるのはそれはそれは大変
でも、いくら遅くなっても(10時に夜ご飯とか普通でした)
料理が得意な父は、美味しいご飯を作ってくれました
(家事は姉を中心に、お手伝いもよくしたのを覚えています)
ですが
「疲れた」なんて
言葉は聞いたことがありませんでした
遊ぶのが好きな父
ご飯の後の我が家の定番の遊びといえば
ボードに、父からのお題が出され
図形を(例えば△)3人分用意されて
これに何かを足して、ひとつのものを完成させる
というのをよくやっていました
この遊びが私は大好きでした
想像力はここで鍛えられたのかもしれません
忙しくしていた父でしたが
私が高校生になったくらいから
時代の流れや景気の影響もあって
経営もうまく、いかなくなっていた様子でしたが
なんとか、諦めずにとにかく一生懸命仕事をしてたのは
子供ながらになんとなく感じていました
私が独立を相談した時は
「何もしてあげられなくて申し訳ないけど
でもお前なら絶対成功するから、頑張れ!」
と、同じ自営業を始める大変さを伝え止めるのではなく
私の挑戦を心から応援してくれてました
(リニューアルの時は内装を手伝ってくれて旦那さんとのコンビもなかなかでした笑)
それから数年後
お仕事も少なくなってきたのか
気持ちもついていかないのか
父は家からもなかなか出なくなってきていました
最終的には体調も悪くなっている様子に
姉の心配も限界になり、病院へ連れて行ったのですが
そこですでに身体中に癌が見つかってしまいました
もう、余命も告げられたあと
気持ちも落ち込んでいるであろう時
どんな顔でいるのか心配しながら病院へ行きました
ですが父はなんと
病棟でお庭のデザインを描いていたのです
私と父は仕事の話をよくしていたのですが
その日は絵をもとに
「いいか、見てくれ、ここがこうなってここをまっすぐいくと、、、」
など、そのイメージをすごく真剣に真剣に
教えてくれました
その時
最後の最後になっても
本当に好きなお仕事だったんだな
最後の最後だからこそ
やっぱり自分はこれが好きだったんだと
思い返したのかな
そう思いました
あっけなく
そのあと数日後に亡くなってしまい
69歳でした
悲しくて悲しくて仕方がなかったのですが
悲しみを引きずって生きていくことよりも
人生の短さや
自分の人生納得できるように生きること
好きなことを大事に生きていくこと
すごくたくさんのメッセージを父からもらったような気がして
より、自分のこれからの人生に向き合うようになりました
悲しみのエネルギーをそこに変えていけるようになりました
余命を知り、長くお付き合いしていた
今の旦那さんとの結婚を決めたのですが
旦那さんのことをとにかく気に入っていた父は大喜び
(同じ病棟の患者さんへ大きな声で発表して、恥ずかしい思いをしたの覚えてます笑)
ですが私と二人になった時
「でも、お前は仕事は松井(旧姓)でやってくんだろ?」
と聞いてきました、おそらく松井の名前をお仕事は受け継いでほしい
という気持ちだったのでしょう
今も私はお仕事では旧姓を名乗っています
せっかく父からもらった感性やいろいろなもの
このままで終わらせたくないと亡くなってからどんどん思うようになりました
悲しんでいないで、もう一歩
私自身、勇気を持って進んでみよう
そこで、ずっとチャレンジしたいけど
理由をつけて行動できていなかった
札幌店の出店
を決意し、その年の10月にオープンを決めました
札幌店も、もちろん
旭川店同様に、毎日誰も来ない
なんていう日々でしたし
やっと、10年かけて
お客様が増えてきたタイミングで
コロナに加え
建物の取り壊しのための立退要請
2年近く、物件探しと立退にあたっての調停など
次々と難題がやってきます
ですがそのたびに
「いや、きっとパパも天国から応援してくれてる」
「せっかく受け継いできた色んなもの、ここでは諦めたくない」
「お前ならできると言ってくれたこと、信じて頑張りたい」
そう思い返しては鼓舞してここまで頑張ってこれたのだと思います
短い人生だったとは思うのですが
最後の最後
「俺さ、なかなかいい人生だったと思うんだよな」
と言っていた父
きっと大変なことばかり、色んなことがあったと思うのですが
最後にそう思えるなんて
きっと後悔なく生きた証拠なのではないかと思い
私もそうでありたいと思いました
この父の元に生まれたからこそ
辛いこと悲しいことも色々ありますが
たくさんの素敵な方達に出会いながら
好きなことをやらせてもらい
どんどん、人生に厚みが出てきているのではないかと
自分ながらに思っています
今年もなかなか大変な状況からのスタートではありましたし
きっと今後も色々な出来事に遭遇するかと思いますが
その度に
札幌店を始めたきっかけの父のことを思い出し
そして今ある環境に感謝し
生きていけたらと思っています
写真は父が
札幌市の親善として
日本庭園の技術を
姉妹都市ドイツのミュンヘンへ教えに行った時
ドイツの新聞に取材された時のもの
(左のノーヘルが父です笑)
忍者と向こうで呼ばれてたそうです
面白くて、ちょっと情けなくて、優しくて、かっこいい
不思議なでも魅力的な父でした😌


